全国労働組合総連合(全労連)

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事務局長の部屋

【月刊全労連連載】It’s Union Time「労働組合を学びの場に」(2025年6月号)

2025/05/15
対話と学びあい

全労連事務局長 黒澤幸一

労働組合を「民主主義の学校」に

「物事を変えるよりも選択しろ」「いやだったら違うところを選択すればいい」と自己責任を内面化するなかで、若者たちは変化している。自分で自分の空間や社会を変える経験に乏しく、変えられると思えない。困難な状況に直面したときには、別の場所を選択するか我慢するか、どっちかみたいな感じで生きているのではないか。 『学習の友』2025年5月号「特集・連帯を求める青年労働者たち」の「今日の青年は『私たち』の世界をつくれるか─労働組合をもう一度、『民主主義の学校』に」の中で、松田洋介さん(大東文化大学教授)が語っていることだ。

松田先生は「脱・埋め込み化」が進んでいると続ける。戦後、企業社会が強力であった時には多くの人が労働組合に入ってきた。90年代以降は、その企業社会が薄れ、企業の安定も失われる中で、できる限り組織にフルコミットメントせずに、いつでも逃げられる、しがらみに振り回されない感じで生きることが「生きる術」となっているという。文化的な「脱・埋め込み化」でも、スマホがあれば映画館でなくとも1人で映画をいつでも見ることができ、「自由な選択」の余地が高まっている。そして、「この集団は私にとってどうなのか」と裏で吟味して、スマホで検索し、「やっぱここ無理」とパッと去っていく。そういう感じが増えているのではないか。「適応か退出か」の二者択一になっていると、いまの若者像を述べる。

その上で、松田先生は「その生きる術の中に、労働組合や社会運動が入っていけばいいのではないか」と問題提起する。若者たちは、一方で、選択に疲弊してもいる。互いに気を使いながらコミュニケーションを続けることも、しんどい。だから「安心して共にいられる居場所を求めている。他者を大切にしながら、自分も心地よくいられる集団を求めている」。これは、新しい社会性を生み出す模索なのではないか。「労働基準法とか労働組合とかを学ぶことも大切だが、生徒会活動などを通じて連帯すれば変えられるような経験を学校時代にしてほしい」と述べ、法律や権利ではなく、身体化された「異議申し立てをしてもいい」という感覚を得ることではないか。残念ながら、いまは子ども時代にそのことを得ることは難しい。そんな時、労働組合運動の役割は大きく、自分だけでなく「私たち」の感覚をつくる上で労働組合は欠かせないのではないか。結論的には、労働組合運動に参加することは、欠落している「民主主義的な異議申し立ての訓練」となるし、「私と社会との関係認識を深めるトレーニングになる」と問題提起する。

労働組合への期待がつまった問題提起と受け止めた。身体的に「声をあげることで変えられる」感覚を多くの労働者が安心のなかで得るためには、労働組合が民主主義を体験し学べる場であることが欠かせないこと。声をあげるための心理的な安全性は労働組合によってつくられる。まさに、民主主義の学校として労働組合が機能することが、社会を進歩的に変える原動力になる。

現場実践にこそ答え

労働運動交流集会「レバカレ2025」の準備がすすむ。はじめての企画だけに、本当に多くの意見をいただき、一部、開催方法も見直しをかけた。

「物事を変えるよりも選択」と労働者を沈黙させる資本の労働者支配は、極まっている。そんななか、「レバカレ2025」は貴重だ。

「沈黙から脱出」するには、現場の実践にこそ答えがある。現場での実践や体験をみんなで共有し、育てる場を全労連は「レバカレ」というスペース(場)で提供したい。貴重な活動実践を参加型、持ち込み型で持ち寄り、発信しあい、「なぜやろうと思ったのか」「なぜできたのか」などを共有する。そうしたなかで、共通点を見つけ、分析し、教訓化し、体系化・言語化することができれば、さらに運動は広げられる。自覚的・能動的な組合員を職場や地域で多数にしていく力になる。労働組合を強くし、理不尽なこと、人権が守られないことに「声をあげられる民主主義」を構築していくことにつながると確信する。

労働者あっての企業

「船の中には『これじゃ船が動く道理がない』と、船会社の社長が言った半馬鹿、半狂人の船長と、木乃伊のような労働者と、多くの腐った屍とがあつた」。これは葉山嘉樹著『労働者の居ない船』(1926年2月7日)の最後の一説。日本プロレタリア文学の代表作家が書き残した短編小説。第一次世界大戦後の当時、日本からマニラに向かって石炭を運ぶ船。「労働者たちは、その船を動かす蒸汽のようなものだ。片っ端から使い『捨て』られる」「『俺達は人間』だ。『鰹節』じゃない」と言いながら、労働者と資本は、戦ってはじめて、どちらが正しいかが分かる、と話は進む。次々に梅毒やコレラ菌が広がり「労働者の居ない船」となり船は動かなくなる。船があっても、労働者が居なければ、まったく動かない。「企業あっての労働者じゃなく、労働者あっての企業である」ことからブレずにたたかっていきたい。

(月刊全労連2025年6月号 通巻338号)

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