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国旗 世界の労働者のたたかい
ドイツ
2005

 政権与党である社会民主党(SPD)の04年の支持率は20%台にまで落ちこんだ。この年に行われたいくつかの地方選挙ではそのほとんどで同党は「敗北」した。「欧州議会」選挙(6月)でも大きく後退した。とくに注目されたのは東ドイツ地域、ブランデンブルクとザクセンの州議会選挙であった。そこでは2大政党(SPDと保守のキリスト教民主同盟)がともに得票率と議席を減らし、「民主的社会主義党(PDS、東西統一以前の「社会主義統一党」の後継政党)がブランデンブルクで第1党、ザクセンで第2党に進出する一方で、極右政党―ブランデンブルグの「ドイツ国民連合」(DVU)とザクセンの「ドイツ国家民主党」(NPD)―がそろって議会勢力となる激変が起こった。
 一連の地方選挙に先立って、シュレーダー首相は2月初めにSPDの党首を辞任すると表明し、3月の臨時党大会で承認された。辞任は党勢低迷の責任をとる一方で、現政権の政策推進に専念する姿勢を示そうとするものであった。党首の後任にはミュンテフェリング連邦議会院内総務が選出された。
 イラク派兵反対の世論に応えて総選挙で辛勝し、続投となったシュレーダー政権にたいするこの高まる不評の根因は、03年3月の首相の施政方針演説「アジェンダ2010」が提示した社会保障、労働条件の改悪政策にある。首相は「改革政策」の必要を「グローバリジェイションの強制とドイツのデモグラフィックな変化(高齢化・少子化)」で理由づけ、その線上で失業保険の給付期間の削減、解雇規制の緩和、医療費の窓口負担の導入、年金調整の凍結などを相次いで実施し、労働者・市民の反発を強めたのである。
 シュレーダー政権は、「アジェンダ2010」の路線に固執することによって、一方では労働組合、さらには自らの党内にさえも対抗力を強めるとともに、他方ではかえって使用者・財界の支持を得たようにみえる。それどころかこの政策基調は、折からの財界や保守党の要求に加勢し、それを加速させる結果を招いている。
 04年のドイツ経済は、前年のマイナス成長から輸出産業の伸びに支えられて微成長に転じた。しかしそれは国内需要の拡大に結びつかず、特に労働市場の改善とは無縁であった。失業者は年間を通じて400万人の大台を続け、12月には97年以来最高といわれる446万4200人を記録した。これは対前年同月でも14万9200人増であった。失業率は10.8%、東西の別では西が8.7%、東が18.5%となった。
 04年5月1日はEU(ヨーロッパ連合)のいわゆる「東方拡大」の日となった。これをチャンスとしてドイツ巨大資本は、「国際競争力強化」、「ドイツ産業立地の保持」の名のもとに、リストラの一大キャンペーンを開始した。「競争力強化」のためには労働コストの節減が急務だとし、人減らし、賃上げ凍結、労働時間延長の逆流が、工場・事業所の海外移転の脅しさえからめて一気に高まった。人減らしと労働時間延長のセット。04年は資本が労働時間政策を180度転換する画期となった。
 「競争力強化」の追求は、既存の労使関係の枠組みに全面的に切り込む動きとなっても現れている。広域労働協約の空洞化、解雇規制のなお一層の緩和、さらには伝統的な共同決定権の骨抜きなどの要求が、社会保障改悪の動きと合流し強まっている。労働組合が「皆伐」、「総攻撃」と位置づける事態の進展がある。たたかいの「正念場」を組合は迎えている。

人減らし、労働時間延長の攻撃強まる

 20年前の1984年に、金属産業労組(IG Metall)は7週間、印刷産業労組(IG Drupa、現在は統一サービス産業労組ver.diに合併)は12週間のストライキをかけて週35時間制を要求した。週40時間の壁が破られ、38.5時間制が実現した。90年には37時間制が協約化されるとともに、93年36時間、95年35時間への段階的移行が決定された。こうしてドイツが、労働時間短縮の先進国になったことは、なお記憶に新しいところである。しかもその場合に、組合が時間短縮要求の理由づけとしてつねに掲げたのが大量失業の縮小、雇用創出であったことが改めて想起される。
 人減らしをして労働時間延長。この逆流が渦巻いたのが04年であった。まず大手製造業から始まったこの流れは、後には産業部門の別なく広がりを見せた。基準労働時間の延長のためのさまざまな手段が論議の対象となり、有給休暇や法定祝祭日のカットにより年間労働日数を増やそうとする動きも加わる。さらにマスメディアには「不払い残業」の用語が頻出するし、「取得率」、「消化率」の用語はなお現れないものの、「有給休暇」の取得日数が目立って減少したとの報道も見られる(ある調査結果によれば、年間1人当り2.2日、雇用者全体で7510万日の有給休暇が未消化、その主要原因は職場の「業績圧力」の強まりにあるとされた)。
 労働時間延長攻撃をめぐるたたかいの代表的な事例は後に取り上げることとし、ここでなお2つの連動する動きを指摘したい。1つは「閉店法」についてである。04年9月24日に連邦参議院(各州代表で構成、現在は野党が多数派)は連邦議会(下院)に対し、小売業における閉店時間の規制を国から各州の所管へ移すこと、そのために現行「閉店法」に開放条項を挿入することを一致して要求した。平日の開店時間幅を完全に自由にする意図での要求であった。この動きにはずみをつけたのは6月9日の連邦憲法裁判所(最高裁)の判決であった。営業の自由の名で「閉店法」に向けられていた違憲訴訟に対して、判決は全国ワイドの現行法を有効としながらも、将来の「改革」については各州の手に委ねることを可能としたのである。連邦参議院の動議提出に対し、当事者組合である統一サービス産業労組ver.diは、それの「却下」を連邦議会に要請した。
 いま1つは祝祭日の削減問題である。ドイツの祝祭日はほとんどが州の所管である。教会法上の祝祭日およびメーデーは州法に定められている。唯一例外は10月3日の「統一の日」(14年前の東西ドイツ統一の記念日)で、これは連邦(国)法の規定による。シュレーダー首相はこの10月3日の記念日を廃止し、10月の第1日曜日にそれを重ねる案を公表した。経済成長を上向きにし、税収を増やすためだとし、これにはアイヘル蔵相、クレメント経済・労働相、SPD党首も賛成したとされた。しかしこの案は党内外のいっせい反発を受け、直ちに撤回された。撤回はされたが、首相発言は野党の週40時間制要求に油をそそぐ結果になったといわれた。

◆ 賃上げに労働時間延長をからめた ― 金属産業の労働協約交渉

 03年12月に、議会は両院協議会での審議の末、難航した「税制改革」と「労働市場改革」に関する法案を一括採決した。その場合に、後者の一環として野党(キリスト教民主同盟CDU、同社会同盟CSU、自由民主党FDP)が法制化を要求した「協約自治」の制限については、法制化を見送る代りに、議事録に次のような「覚え書」を残すことによって暫定的な決着がつけられた。「彼ら(協約当事者―引用者)は今後12ヵ月に、協約レベルと経営レベルにおける諸規則のあいだの新しいバランスに向けて意思を疎通し合う」と(本調査報告第10集参照)。広域協約の一層の緩和こそ法介入回避の道だという勧告であった。
 04年の協約ラウンドは金属産業で始まった。2年ぶりの賃上げ交渉であったが、そこでの対決の中心に使用者側から出されたのが労働時間延長の提案であった。組合(IG Metall)は前年に、東ドイツ地域で週35時間制を要求してストライキでたたかったが敗北していた(第10集参照)。そして上述した議会の「覚え書」が使用者にとっての追い風となっていた。
 金属産業の労働協約は03年末で期限切れとなった。02年5月妥結の協約では、一部に「報酬枠組協定」(ERA)は次の通りである。(1)高資格の専門労働者が50%以上を占める企業・事業所では、使用者と事業所委員会部分を含んで4.0%と3.1%の2段階の賃上げを中心内容としていた(第9集参照)。協約改定について、組合は4%の賃上げ(ERAの最終部分を含む)を12ヵ月の有効期限で要求した。交渉は03年12月15日に始まったが、使用者側(Gesamtmetall、ドイツ金属・電子産業使用者団体連盟)はすでにこれに先立って、経営当事者(使用者と従業員代表機関である事業所委員会)の合意による労働時間延長、したがって広域労働協約に労働時間についての開放条項を盛り込む意向を公言していた。それが具体的に提示されたのは1月23日の第3回交渉で、それは以下の点を含んでいた。(1)週35時間から40時間までの労働時間回廊の導入。(2)労働時間延長にともなう賃金調整は、そのなし/ありを経営協定で。(3)労働時間協約(賃金協約〔Tarifvertrag〕とは別に、Manteltarifvertrag〔基本協約、包括労働協約〕として締結される)の有効期限は3年。労働時間に関するこの提案を前提として、使用者は賃金について次の解答を行なった。(1)04年1月1日から05年3月31日までの15ヵ月について1.2%引上げ。(2)05年4月1日から06年3月31日までの12ヵ月についてさらに1.2%。(3)協約の有効期限はしたがって27ヵ月。(4)ERA基金の最終補填部分も一回払いの形で上記賃上げ分に含まれる。
 組合は強く反発した。賃金提案は物価上昇率さえカバーせず、「厚かましい侮辱」であり、それに労働時間延長を結びつけるのは挑発だと批判した(フーバー副委員長)。1月28日に「平和維持義務」が時間切れになると同時に、組合は警告ストを開始し、それは交渉の妥結時まで50万人以上が参加し展開された。
 2月11/12日の16時間に及んだバーデン・ヴュルテンベルクの第6次交渉で、パイロット協約が妥結を見た。賃金については次のようになった。(1)1月と2月を引上げゼロとし、04年3月1日から2.2%の賃上げ。(2)05年3月からさらに2.7%の賃上げ。(3)各年の賃上げ率のうち0.7%は、ERA実施のための調整資金(賃金構造構成要素=Strukturkomponenteと呼ばれる)に組み入れられる。(4)協約の有効期限は04年1月1日から06年2月28日までの26ヵ月。なおERAは05年3月1日から08年2月29日までのあいだの経営ごと実施が合意された。
 労働時間についても新たな協約が締結された。大要(組合とは別人格の従業員代表制)は、従来は18%までであった週40時間への逸脱率(Quote)の50%までの引上げを合意することができる。(2)労働協約当事者(使用者団体と組合)は、企業・事業所の当事者の委託を受けて「イノヴェーション過程を可能にするために、あるいは専門労働力不足に対処するために」、事業所あるいは事業所の一部について逸脱率の引上げを合意することができる。(3)逸脱率の引上げ=超過労働の拡大は人員削減に導いてはならない。(4)企業・事業所が新規雇用を取決めたが急にはそれが得られないとき、短期間について労働時間を延長することができる。
 バーデン・ヴュルテンベルク地区の上記のようなパイロット妥結は、多少の曲折はあったものの早急に他の地区でも受け入れられた。協約当事者は当然ながら妥結のそれぞれ異なった局面を強調した。IG Metallのペータース委員長は、組合が週40時間制の広域的な再導入を、賃金調整なしの事態も含めて阻止した点を強調した。「われわれは使用者に、彼らの無謀な企ての見通しのなさを納得させることができたことを喜んでいる」と。一方の使用者側は、経営当事者の手に労働時間量の決定権限を与えることができなかったことを認めながらも、妥結を「パラダイム転換」とみなし、経営レベルで新しい試みに踏みこむステップができたことを強調した。
 新聞論調の一部には激しい使用者批判が見られた。「協約政策上のワーテルロー」などの評(フランクフルター・アルゲマイネ紙)はその最たるものであった。経営者団体も同業者批判をした。「ドイツ工業連盟」のロゴウスキー会長は、「一定の条件のもとでの賃金調整なしの労働時間の拡大、それは全く達せられなかった」と失望をあらわにし、ふたたび法定開放条項(協約自治の法的制限)が要求されなくてもよいかどうかの問題が出された、と述べた。
 「ドイツ労働総同盟」(DGB)の「経済・社会科学研究所」(WSI)の「月報」第7号(WSI Mitteilungen 7/’04)は、上半期の「協約政策報告」で金属の場合を扱った末尾で次のように指摘していた。「協約結果のこうした批判的な評価(上述のような使用者批判のこと―引用者)は、IG Metallが不利な政治的枠組条件のもとで、見事に窮地を脱したという結論に誘いかねない。しかしすでに協約妥結の直後に、協約の新しい可能性をどの企業が利用できるかについての論議が始まった。そしてその間にジーメンスで合意されたカンプ・リントフォルトとボッホルトの2工場(ノルトライン・ヴェストファーレン州にあり携帯電話製造―引用者)の賃金調整なしの労働時間延長の取決めは、新しい協約開放条項の狭い仕切りにかけた期待があるいは性急であったかもしれないことを明らかにする。早くも『ダムの決壊』が語られ、世間は『なぜドイツ人はふたたびより長く働かなければならないか』の認識に馴らされている。40時間週への回帰をめぐる新たな論議が始まった」と。

◆ 突破口となったジーメンス協定

 ジーメンスのハインリヒ・フォン・ピーラー社長は03年秋の雑誌インタビューで、週35時間制を「知識の全くの無駄使い」と攻撃し、また高い労働コストによる産業立地の不利を強調、「2000人のドイツ人ソフトウェア開発者に代えて、中国なら1万2000人を雇える」、携帯電話はヨーロッパ製でも中国製でも変りはない、と公言していた。ジーメンスは全世界で43万人、ドイツ国内だけでも105事業所16万7000人の従業員を数える巨大コンツェルンであるが、すでに数年前から、全世界で3万5000人の削減を予告していた。
 金属産業の広域労働協約が妥結した直後の3月に、会社側は5000人の人員削減計画を発表し、手始めにノルトライン・ウェストファーレン州の携帯電話製造2工場(前出)について、従業員5000人のうち2000人の削減と、ハンガリーへの工場移転を提案した。計画は労使3者(IG Metall、全社事業所委員会と会社側)の交渉の結果、6月24日に当面の妥結を見た。交渉経過は後述することにし、まず妥結内容を摘記する。
 2つの協約が合意された。全事業所を対象とする「雇用、競争力、イノヴェーションの確保と開発」についての「枠組協定」と、それを前述2工場に具体化する「補足協約」である。
 前者では先行した金属部門の広域労働協約の支持が表明され、また国内人員削減および外国移転を回避するための会社側の諸方策が約定された。そしてその諸方策がなお不足である場合に限って後者を適用するとされた。
 今回の「補足協約」は次の諸点を内容とした。(1)賃金調整なしの週40時間への所定労働時間の拡大。(2)年間労働時間は1760時間(2年間の変形可)(3)有給休暇手当、クリスマス手当を成果給に転換。(4)有効期間は7月1日から2年、ただし労働時間改定は10月1日から。以上の合意により、ハンガリーへの工場移転は最低2年はなく、また2000人の削減は回避となった。
 協約の交渉過程ではもちろん従業員の抗議行動が繰り返された。6月18日はそのピークとなった。組合と事業所委員会の呼びかけに応えて早朝から全国行動が取組まれ、全国約100ヵ所で2万5000人が参加した。工場の門前や市内でビラ配りや集会・デモが行われた。渦中の2工場では2500人が警告ストに入った。
 IG Metallは「補足協約」の妥結を「苦い薬」であり、1つの特殊なケースと位置づけた。「いま誰かがこの協約を一般例にしようとするのであれば、われわれは抵抗しなければならない」とペータース委員長。またフーバー副委員長は「枠組協定」を積極的に評価し、それは「夢のない人減らしと外国への職場移転には対案がある」ことを示したを述べた。一方ピーラー社長は協約を「理性の勝利だ」と自讃した。「協約は必要な労働協約弾力化にとっての好例である」とドイツ使用者団体連盟(BDA)のフント会長は「補足協約」を歓迎、また金属産業使用者団体連盟(Gesamtmetall)も、ジーメンスの妥結は協約締結が企業に与える弾力性を示す、各企業は自らの必要に応じて協約相手と取決めをすることが可能である、とした。
 ジーメンスの協約は、特に労働時間延長にかかわってその反響を急速に拡げた。これを「モデル」とした延長攻勢が「100まで」と新聞が報じたほどの企業で続いた。ダイムラー・クライスラー、ボッシュ、マンなどである。建設、鉄道、公務など業種の枠を越えても協約交渉の焦点となったし、さらにそれは他のEU諸国にも波及した。

◆ 8年間の雇用保障で―ダイムラー・クライスラーの紛争

 自動車大手のダイムラー・クライスラーは6月半ば、継続中の労働協約交渉(2月に妥結した金属の広域労働協約の後を受けた企業内協約の交渉)の席上で、大規模なコスト削減計画を提示した。バーデン・ヴュルテンベルクの基幹工場ジンデルフィンゲン(約3万人)で、新型車「クラスC」の生産開始に伴い07年以降、年間5億ユーロ(約680億円)を削減する、これが受け入れられなければ「クラスC」などの生産をブレーメンや南アフリカの工場に移す、その場合、ジンデルフィンゲン工場では約6000人を減らす、と。
 削減計画は次の諸点を提案した。賃金調整なしの週35時間から40時間労働への延長、残業割増しのカット、夏・冬の一時金のカット、交替制割増しのカット、1時間につき5分間の有給休憩のカット。ちなみに5分間の有給休憩は「シュタインキューラー休憩」(シュタインキューラーはIG Metallの元委員長の名)と通称される労働者の既得権。メルセデス社長はこれを「バーデン・ヴュルテンベルク病」ときめつけて内外の非難を浴び、後に謝罪・撤回した。
 すでに6月の段階で、事業所委員会は5億ユーロの削減計画に対し、ERA(賃金報酬枠組協定―前述)に基づく調整基金の1億8000ユーロを断念する用意のあること、しかし有給休暇手当とクリスマス手当、および残業割増しのカットのような大幅な計画は拒否することを明らかにしていた。しかし会社側が当初計画を崩さないまま、労働者はIG Metallと全社事業所委員会のもとに結集して抗議行動に転じた。7月9日にはジンデルフィンゲン工場と近接するウンターテュルクハイム工場(モーター製造)の労働者約1万人が勤務時間内の職場集会に参加し、翌日10日にはジンデルフィンゲンで1万2000人が職場放棄に入り自動車1000台の生産がストップした。さらに15日には、IG Metallの呼びかけで全国10ヵ所8万人の労働者が警告ストを実施した。ジンデルフィンゲンのプラカードには、「戦争だ」、「風を蒔く者は嵐を収穫するだろう」(「身から出た錆」―旧約聖書)の文字が見られた。17日にはジンデルフィンゲンでふたたび早番1万2000人の就労拒否があり、生産は完全にストップした。同工場では20日にも1500人参加の夜間の抗議デモが行われた。
 5週間のわたる紛争を経て交渉は7月23日に妥結した。主要な合意事項は次の通りであった。(1)2012年まで8年間経営都合の解雇をしないことの保障。(2)基本的には週35時間制を維持するが、研究・開発・計画部門(約2万人)について、週30時間から40時間(賃金割増しなし)の弾力的な労働時間制。(3)食堂清掃、ガードマンなどサービス業務分野の労働時間を補足協約により週39時間。(4)06年から賃金は2.79%減額(広域労働協約への上乗せ分の)。ただし初年度についてはERA基金を使って一回払いによる補填。(5)1時間ごとの5分の休憩時間は年間の上限を設けて縮小。(6)12時以後の交替制割増し(昼番と夜番)は変更しない。(7)会社首脳部の年俸10%と管理職員約3000人の給与の一部をカット。大略以上のような合意内容のもとで、会社側は5億ユーロの年間削減計画を実現できるとした。
 妥結についてIG Metallと事業所委員会は、約16万の従業員にとって「痛い切り込み」だと認める一方で、しかしこの損失は、8年間に及ぶ「全国ワイドのかけがえのない職場保障」によって埋め合わされると評価した。他方でダイムラー社長は、「合意は立地ドイツにとってモデル性格をもつ。それはドイツの立地を2012年まで保障する」と述べた。金属使用者連盟は、「労働諸条件の規制は今後―広域労働協約の枠内にあっても―はるかに強く経営ごとに決められるだろう」と、ジーメンスの場合と同じ評価を行なった。

◆ 大手デパート・カールシュタットのリストラ ―「会社都合の解雇」回避で労使合意

 カールシュタット・クヴェレはヨーロッパ最大級の百貨店・通販チェーンである。百貨店部門だけでも国内に181店舗を展開する。従業員は海外も含めて全体で約10万人、百貨店部門は4万7000人、そのうち3万7500人がフルタイマーであった(04年上期現在)。
 10月14日、労使3者(統一サービス産業労組ver.di、全社事業所委員会と会社側)は、会社側から出されていたリストラ案について、29時間のマラソン交渉の結果、合意に達した。会社は再建計画として今後3年間(05−07年)に7億6000万ユーロ(約1034億円)の人件費節減を実施するとして、そのために以下の諸点が合意された。(1)今後3年間に百貨店部門4000人、通販部門1500人、計5500人の人員削減。ただしこれを「会社都合の解雇」としては行わず、解雇される従業員の再就職訓練や解雇一時金などの「社会計画」を作成して実施。(2)3年間の賃金凍結。この間の広域協約賃金の引上げ分は先送りされ、後日株式配当が可能になった時点で後払いされる。(3)有給休暇手当、クリスマス手当など各種手当金の廃止。(4)会社は181店舗中77店舗を売却(閉鎖はしない)。(5)労働時間の延長・短縮は行わない。
 「社会計画」は『経営組織法』(事業所委員会の根拠法)の規定に基づくもので、解雇従業員の社会復帰のため会社とジョブ・センター(旧職安)が資金を出し、それによって職業再訓練や解雇一時金支給を行なう計画である。方法としては一時金、高齢者パート契約(早期年金者化)、および「雇用会社」(訓練と職業紹介の機関)の設置が挙げられた。
 妥結内容から労働時間の変更が除かれた点は注目された。労働時間の週40時間から42時間までの延長(小売業の現行基本協約では西地区37時間、東地区38時間)と年間労働時間の弾力化は会社側の一貫した主張であったからである。「再建計画」の細目が公表されたのは9月28日であるが、それ以前に非公式に伝えられたところでは、人員削減と賃金調整なしの時間延長が計画の中心に置かれ、百貨店の一部の閉鎖は全面否定される状況さえ見られた。労働側は反対に終始した。ver.diはすでに7月の段階で「カールシュタットの42時間週は職場を破滅させる」の声明を出し、「労働時間延長と雇用保障とは両立しない」と訴えていた。「閉店法」改悪の動きにもかかわり、ver.diにとって譲れない点であった。「職場集会」が開かれ、百貨店開店が午後になるケースも起きた。大詰めの交渉が続く10月13日に組合が配ったビラは、会社側の労働時間延長要求に激しい抗議行動を起こすと予告していた。「われわれがこれまで以上に働けば、会社はさらに多くわれわれを解雇できる。真っ平だ!」。賃金調整なしのこうした時間延長を許せば、「終わりなきスパイラル」が始まる、「労働協約はそれによってますます空洞化される」、とビラは訴えていた。延長阻止がこうして実現した。
 妥結について組合は、「痛苦の切り込み」と語り、特に賃金凍結を「最も苦い薬」だとしながらも、雇用の1点で踏みとどまったことを成果とした。10月18日にver.diは、「カールシュタットの合意は、商業の協約水準への切り込みについての招待状ではない」との声明を出した。

◆ フォルクスワーゲン、15年来最大の警告ストで雇用を守り抜く

 ジーメンスやダイムラー・クライスラーの場合と同じに、フォルクスワーゲン(VW)も、通常の金属産業の広域労働協約とは別に、IG Metallとの間に、企業内労働協約を結ぶ。2月の広域労働協約の妥結を受けて(前述参照)、組合はVWとの協約ラウンドでも、4%の賃上げと雇用保障とを要求した。交渉は9月15日に始まったが、これより先、会社側は春の段階で30%の人件費削減を2011年までに行うと発表し、交渉(使用者側代表はハルツ人事担当取締役―後述も参照)ではいきなりその具体策として「7項目プログラム」を提示した。2年間の賃上げゼロ、労働時間貯蓄口座の1人当り年間400時間までの倍加(残業割増しなし)、新規採用者の賃金切下げ(01年に設立した子会社「Auto 5000」の低い賃金を西地域6工場に適用―本調査報告第8集参照)、冬のボーナス(最低1200ユーロ、約16万円)を成果給に改変、福利厚生費の節減(例えば病欠は後日労働で補填あるいは賃金カット)などがそれで、会社側は、これら節減が実施されなければ3万人の人減らしもあり得るとした。交渉は当初から緊迫したものになった。
 10月12日の第3次交渉で、会社側は西ドイツ地域6工場10万3000人の雇用を保障する用意のあること、しかしその前提は競争可能な水準への労働コストの削減であることを表明した。組合は要求する「代償」が高すぎるとして拒否。続く21日の第4次交渉では、組合が4%の賃上げ要求をおろし、2月の広域労働協約の妥結水準での雇用保障を提案したが、会社側がこれを拒否した。組合は次週の抗議行動を予告した。
 26、27日には各工場前でデモ・集会が実施された。そして28日の第5次交渉の当日は平和維持義務の期限切れと重なっていた。交渉は決裂し、すでにその夜から警告ストが始まった。29日から11月2日までに5万人強が警告スト(時限スト)に入ったが、これはVWでは95年以来初めてで、規模では15年来最大の抗議行動であった。その中で11月1日からの第6次交渉は休憩をはさんで継続され、3日に最終合意となった。
 合意には次の諸点があった。(1)2011年までの雇用保障。(2)07年1月まで28ヵ月の賃金凍結、ただし05年3月は1000ユーロ(約14万円)の一時金。(3)新規採用者と受入れ実習生の賃金を広域協約並みに引下げ(現行より20%減と会社側は見込む)。(4)労働時間貯蓄口座の弾力化で残業割増しの節減。(5)使用者側は賃金の30%相当を成果給にする要求を出していたが実現しなかった。また28ヵ月の賃金凍結に合わせて、使用者側も同じ期間について給与引上げをしないことを決定した。
 会社側は、新協約で年間10億ユーロ(約1360億円)の人件費節減が可能になったとし、国際競争力強化のための「革新的な構想」が決定されたと評価した。組合側は雇用保障と1000ユーロの1回払いを認めさせたこと、賃金調整なしの労働時間延長を阻止して、94年以来の週28.8時間制を基本的に維持した(新規雇用者と実習生は28.8時間から35時間の回廊)ことを成果とみなした。

◆ GM傘下オペル労働者の苦闘―自発的スト6日間

 VWの紛争と時期を重ねてアメリカGM(ゼネラルモータース)の子会社オペル(ドイツ国内従業員数3万2000人)でも紛争が起こった。10月14日GMは、ヨーロッパのグループ企業(オペルおよびスウェーデンのサーブ、イギリスのヴォクスホール)全体で年間5億ユーロ(約680億円)のコスト節減のため、従業員6万2000人から1万2000人を削減する、うち1万人はドイツでとし、主力工場であるリュセルスハイムとボッフムでそれぞれ4000人規模の削減をするとの計画を明らかにした。GM傘下のオペルのドイツに集中した削減計画については、イラクをめぐる独・米両国間の政治の影を指摘する新聞論調も見られた。業績低迷についてGMの経営戦略の責任を問うドイツ財界の反応さえ示された。
 抗議行動がボッフムでの「自発的スト」となって計画発表のその日に直ちに起こった。俗称「山猫スト」であり、原投票によるスト権集約を経ない、協約紛争の枠内にないストライキであり、法律的には経営組織法上、労使交渉が始まれば「平和維持義務」が発生するため違法とみなされる争議行為である。近くて73年以来といわれるこの「自発的スト」は14日から19日まで6日間続いたが、ボッフム工場が車軸や排気管を他工場に納品する工場でもあったため、そこでのストはドイツばかりでなく、ヨーロッパの他工場にも生産ストップをひき起こした。
 労使交渉は18日から始まった。IG Metallは翌19日をヨーロッパ・ワイドの「行動日」として呼びかけ、各地での集会・デモには5万人が結集した。ドイツ国内ではボッフム1万人、リュッセルスハイム2万人、カイザースラウテル2000人が街頭に出た。「自発的スト」は従業員集会での秘密投票で20日に中止された。
 交渉は進展が遅く12月にまで及んだ。その間の11月半ばには、生産拠点の維持を前提にして労働側(IG Metallと全社事業所委員会)は、リュッセルスハイム工場の現行の労働時間回廊32〜38.75時間週の30〜40時間週への拡大、さらには広域労働協約に上積みされた現行給付の引下げを、先んじて提案さえした。回廊の拡大は、賃金は現行で35時間まで支払われるから、40時間労働の場合は5時間が残業手当なしとなる。さらに11月29日の交渉で労働側は、会社都合の解雇と工場閉鎖の回避を「基本要求」として提出し、これがのめないなら交渉を打ち切ると迫った。同日、IG Metallの職場委員は、「基本要求」を主旨とした4万人署名を会社側に手渡した。
 12月8日、「GM雇用者フォーラム」(ヨーロッパ全域の代表権をもつ労働側交渉団、実質は全社事業所委員会の代表が中心)と使用者側は「ヨーロッパ基本労働協約」を締結した。ドイツでは東地域のアイゼナハ工場を除く3工場について、閉鎖を回避する一方で、百貨店カールシュタットの例に見られる「会社都合の解雇」によらない9500人の人員削減(リュッセルスハイム5500人、ボッフム3600人、カイザースラウテルン400人)が合意された。「戦後史上最も激しい切り込みだ、しかし経営に条件づけられた解雇告知(会社都合の解雇―引用者)を回避するとの全事業所委員会の最重要目標はヨーロッパ・ワイドに達成された」と全社事業所委員会のフランツ議長は語った。この目標の具体的な変換はナショナル・レベルで交渉されることになる。
 人員削減は「社会計画」を主な柱として実施される。対象者は会社と連邦雇用機関が出資して設置される「雇用・資格付与会社(職業訓練会社)に移り、1年間給与を受けながら再就職のための訓練を受けるか、あるいは解雇一時金を受けて退職する。さらに実施が予定されているのは58歳以上者の高齢者パートへの移行―早期年金受給者化、下請け企業との合弁会社への移籍だといわれる。
 工場の今後の労働関係の取決めは05年に持ち越された。全社事業所委員会は、GM新中型車の生産ラインをリュッセルスハイムに建設する会社側の約束を、労働条件についての譲歩の前提にする姿勢をとっている。労働時間回廊の拡大と金属産業の広域労働協約を上回る現行給付部分の引下げが予想されている。

◆ ドイツテレコムは時短 ―週34時間制を協約化

 労働時間延長攻撃が強まる中で、逆に短縮を協約に盛りこんだのは電話通信会社ドイツテレコムであった(当事者組合はver.di)。
 テレコムはこの数年来人減らしを「社会計画」によって、すなわち会社と連邦雇用機関の出資で設置された職業訓練会社(社名Vivento)の活用で行なってきた。組合との協定では04年末までがこの訓練会社の設置期限とされていたが、ver.diは04年初頭に始まった協約ラウンドで、08年末までのそれの延長と、「会社都合の解雇」の回避とを、要求の1つとして加えることとした。雇用保障のための、所得への影響を極力抑えての期間を限った週32時間制(現行38時間)、そのための前提として、賃金調整なしの35時間制の協約化、そして4%の賃上げ、これが組合要求となった。
 3月15日の第6次交渉で新協約が合意された。その主要点は、(1)Viventoを08年末まで継続、ただし対象者の賃金を15%減額。(2)06年までの雇用保障(従業員約1万2000人)。(3)35.5時間ベースの一部賃金調整を伴う38時間から34時間への週労働時間の短縮。(4)04年5月からゼロ8ヵ月の後、05年1月から有効期限15ヵ月で2.7%の賃上げ。
 一部賃下げ(会社側は6.6%と見込む)を認めたものの、34時間制への4時間の短縮と雇用保障とを協約化したことを、ver.diは労働時間延長論議が広まっている折からその意義は多大だと評価した。

2004年の協約運動 ― 厳しい賃上げのたたかい

 04年の協約改定について、雇用と労働時間とのかかわりで、そのいくつかの事例を上述した。この年の協約運動を特徴づけると考えられたからである。以下には賃金に視点を集めて若干の事例を報告する。
 前述した「経済・社会科学研究所」(WSI)の「月報」第7号(7/04)は、04年上半期の協約政策報告として、主として賃金面からの協約動向を伝えている。そこでの総括的な指摘を借りると次のようである。「2004年の協約ラウンドは金属産業における紛争によって強く刻印された。そこでは2年来初めてふたたび賃金・給与引上げについて交渉されたが、対決の中心に出されたのは労働時間延長の問題であった。・・・賃金妥結はむしろ控え目な結果となり、全経済的な、コスト中立的な分配余地も汲み尽くされなかった。多数の部門で労働組合は、協約上の給付と水準への使用者側の切り込み要求と対決させられた」と。研究所が各妥結結果を集計し、前期協約での引上げ分をも勘案して算出した04年の賃上げ率は平均2%で、これは前年の2.5%よりも低く、また予測された物価上昇率1.6%、生産性上昇率1.5%をも大きく下回っていた。「控え目」、「分配余地が汲み尽されない」とはその結果についてであった。
 交渉は厳しい対決の中で行われた。たとえば新聞編集労働者(1万4000人)のそれは03年6月から続けられたが、使用者側は労働時間の延長、有給休暇の手当・日数の削減などを提案して譲らず、なんの進展もないまま組合(ver.diとドイツ・ジャーナリスト連盟)は年明けの1月半ばに交渉決裂を宣言し、スト権集約の原投票に移った。投票では70の新聞社の90%強の組合員が賛成し、ストライキは1月末から波状的に実施された。
 2月初め、使用者側は2度目の提案をしたが、それは有給休暇の削減を繰返し要求する一方で、賃金については1年間の凍結、その後2年間は1%引上げというものであった。対案として組合は、有給休暇手当の期限を切って85%への切下げ、同じく日数の年齢別の削減、および04年6月から1%、05年2月からさらに1.5%の賃上げを提案さえした。
 2月25日の第8次交渉でようやく合意が成立した。賃金は10ヵ月の据え置きの後04年6月1日から1.3%の引上げ、有効期限は05年7月末までの2年間となった。有給休暇手当は80%に減額、日数も年齢別に30日〜34日とされた(従来は一律35日)。しかし労働時間延長は阻止された。
 「厳しい交渉の後のよい妥結だ」。民営化された郵便会社、ドイツ・ポストの労働側交渉リーダー(組合はver.di)の言だが、ここでの協約交渉も5月22日から29日まで6000人が参加・実施した警告ストに支えられた。組合によれば、この警告ストの結果、1日に60万から400万の郵便物が遅配になったと言われる。24時間にわたった第3次交渉で、6月2日新協約が合意された(該当者16万人)。04年11月1日から2.7%、05年11月1日からさらに2.3%の賃上げ、04年の7月と9月にそれぞれ65ユーロ(約8800円)の1回払い、パートタイム従事者もその週労働時間に応じてこの1回払いを受ける、有効期限は04年5月1日から06年4月30日までの24ヵ月。これが妥結の主要点であった。「これは、きわめて困難な協約政策上の環境の中でも積極的な妥結が可能であることを示す」とver.di広報は伝えた。
 繊維部門(西ドイツ地域14万人、組合はIG Metall)では警告ストをロックアウトする事態があった。行きづまった交渉を打開するために、組合は4つの州で警告ストを呼びかけ、それは10月1日から始まり、延べ2万人が参加した。同じ日に使用者団体はロックアウトの実施を決議したが、10月6日にノルトライン・ウェストファーレン州の1会社がそれに踏み切った。10月11日の第4次交渉で新協約が妥結された。04年をゼロ月として05年に一括払い108ユーロ(約1万5000円)を4回、06年は1.8%の賃上げ。これが主要点であった。使用者側は協約の一般的な開放条項を要求したが、組合はこれの阻止を貫いた。
 11月には鉄道3組合(Transnet 27万人、GDBA=ドイツ鉄道職員組合7万人、GDL=ドイツ機関士組合3万人)の交渉があった。25日にTransnetとGDBAは妥結に応じたが、GLDはこれに参加せず別途交渉を続けることになった。合意の柱は2010年までの雇用保障とその対極での5.5%の労働コスト削減であった。後者は労働時間の延長と弾力化によるものとされ、平均して現行週38時間から40時間への賃金調整なしの延長が予定された。雇用保障の形態はダイムラー・クライスラーとVWの例にならうものとなった。
 交渉が難行し、越年することになったのは建設部門であった。6月末から始まった交渉は12月14日の第5次交渉でも歩み寄りが見られず、次回の日時も決めないままに延期された。当初、組合(IG BAU、80万人)は「雇用保障基金」の設置を目指し、その積立分も含めて2.2%の賃上げを要求したが、その後の交渉は労働時間と雇用保障の2点に集中した。第5次交渉でも、使用者側は週労働時間の現行週39時間の賃金調整なしでの42時間への延長を、一般的な開放条項とすることを要求。一方の組合は、受注の乏しい時期の解雇を避けるために「年間労働時間口座」を設け、これによる通年の雇用維持を提案した。一般的な開放条項に代えて、組合は「企業内協約」(企業レベルで労使交渉)を提案したが、使用者側は7万の企業にとっては「非現実的」と拒否した。
 化学産業(58万人)は5月半ばの第3次交渉(地域別交渉1回で直ちに中央交渉に移行)で、1.5%の引上げ、10月に開放条項つきで月額賃金の7.2%の1回払い、有効期限13ヵ月を柱にして妥結。また銀行部門(43万人)は7月7日から始まった18時間の交渉マラソン(第3回)で、9月から2%、05年9月からさらに1.5%、有効期限06年5月末で合意した。注目された協約交渉に民間の廃棄物処理業(1万6000人)の場合があった(組合はver.di)。10月19日に50企業、翌20日に20企業の数千人の労働者が警告ストを行なった。16時間に及んだ第5次交渉(20日)で、05年1月から1.9%の賃上げ、有効期限16ヵ月が合意された。なお協約大手の公共部門は年明け早々に交渉に入ることになる。

「ヨーロッパ出稼ぎ労働者連合」組織される―建設労組が支援

 04年9月1日に「ヨーロッパ出稼ぎ労働者連合」(Der Europäische Verband der Wanderarbeiter、EVW)が組織された。組織化のイニシアチブをとり支援しているのは「建設・農業・環境産業労働組合」(IG BAU、以下では建設労組)である。
 建設労組がEVWの発足を公表したのは9月4日の臨時大会の席上であった。この大会で組合はEVWのこのスタートのために150万ユーロ(約2040万円)の貸付けをしたこと、また当面はヴィーゼヒューゲル建設労組委員長がEVWの議長も兼ねることを明らかにした。委員長はEVWが活動を始めて2日後には、ポーランドの移民労働者9人が最初の組合員になったこと、9人は2ヵ月賃金を受け取っておらず、会社にこの不払いを追求していることを報告した。
 EVWの掲げる目標は、出稼ぎ労働者のための有効な法律・協約上の規制の実施と、ドイツ人ではない彼ら労働者の置かれた状態に沿った労働協約の締結である。賃金請求権の確実な履行、食・住の最低基準の確保が課題となる。建設労組の推計によれば、2,3ヵ月のあいだドイツで――とくに建設業と農業で――働く外国人は50万人にのぼると言われる。その一部は闇労働に流れ劣悪な労働条件の温床となっている。EVWの結成は,建設労組の活動のためにも重要性を増していた。組合は他のEU諸国にも出稼ぎ労働者組織がつくられることを期待している。拡大EUがスタートし、東欧新加盟国からの出稼ぎ労働者の流入が急増すると予想される折から、EVWの今後が注目される。

「社会的皆伐」(社会保障全面削減)に抗議行動続く

 04年の「今年の言葉」の第1席に「ハルツⅣ」(ハルツ第4法)が選ばれた。フォルクスワーゲンの人事担当ペーター・ハルツの名によって通称されるこの法律は、シュレーダー内閣が02年春の「ハルツ委員会」設置を起点にして進めてきた「労働市場の近代的サービスのための法律」および「アジェンダ2010」(「労働市場の諸改革のための法律」)のパッケージの、さしあたり最終に位置する立法である。「失業扶助」(保険から支給される「失業手当」の受給期限の切れた長期失業者に、税を財源にして支給される給付)と「社会扶助」(日本の「生活保護」にあたる)とを統合し、「失業手当Ⅱ」に切り換えることを柱とする法律である(「社会扶助」の統合は稼働能力者のそれであり、非能力者のそれは「社会手当」として存続)。同法は03年末に成立していたが、その実施については国と地方とのあいだでの管理や財政の在り方にかかわる重大な問題が残り、そのための追加的な法手続きが固まったのは04年7月に入ってであった。
 「ハルツ委員会」「アジェンダ2010」については本報告第9,10集で簡単ながら報告した。前者は大量失業克服の提言を求めるとしてシュレーダー内閣が設置した諮問委員会であり、「ハルツⅣ」までの4つの法律はこの委員会の答申に基づいた所産であった。後者は03年3月に第2次シュレーダー政権が掲げた施政方針であり、それに基づいて実施された労働市場・社会保障制度の「改革」が、「ハルツ法」と合体する。さらに「アジェンダ2010」の実施過程では、「社会保障財政の持続性のための委員会」(委員長の名をとり通称「リュールプ委員会」―本報告第10集参照)が設置され、その答申を受けて医療・年金および介護の制度変更が合流する。「シュレーダー首相はSPDの最近の選挙敗北にもかかわらず、『アジェンダ2010』の改革コースに固執し、そのために経済界の明らかな支持を得ている」との新聞報道が現われるような事態の進展である(フランクフルター・ルントシャウ、6月16日)。
 さて、「労働市場の近代的サービスのための法律」と名づけられた4つの「ハルツ法」は大略次のような構成である。「ハルツⅠ」は失業者の派遣労働者化とその拡大に関連する。職安を改組した「雇用機関」(ジョブ・センター)内に派遣事業を営む「人材サービス機関」(PSA)を設置し、失業者を派遣先へ紹介する。「ハルツⅡ」はいわゆるMinijob(軽微雇用),Ich-AG(個人企業)の助成法である。免税措置、社会保険料減免、あるいは国家助成金によって低賃金職場、あるいは個人の起業の拡大を計ろうとする。「ハルツⅢ」は労働行政の「改革」法である。従来の「連邦雇用庁」はサービス企業「連邦雇用機関」(BA)に、職安は「雇用機関」に改組され、失業者への迅速で効率的な紹介を中核業務とする。「ハルツⅣ」については「アジェンダ2010」との関連も含め次の諸点が重要である。(1)「失業手当Ⅱ」の先行給付「失業手当」は、これまで最高32ヵ月であったのが、55歳未満は12ヵ月、55歳以上18ヵ月の支給に。(2)従来の「失業扶助」が最終職時の賃金にリンクしその50%強を支給したのに対し、「失業手当Ⅱ」は「社会扶助」準拠となる(当面は単身者で西が345ユーロ(1ユーロ=約136円)、東が331ユーロ、家族持ちの場合は加算)。(3)資力調査では本人、家族員の財産が従来より厳しく算定される。私的年金(いわゆる「リースター年金」として第1次シュレーダー政権時の制度改革で拡充された経緯がある)も一定額を上回ると資力査定の対象となる。住居・自家用車も「適当な」ことが要求される。(4)職業紹介における「期待可能性」条項が厳しくなる。長期失業者は、(ア)勤務地が遠い、(イ)広域労働協約賃金以下である、(ウ)以前の職業あるいは職業資格が反映されない、などを理由に紹介された職業を拒否できない。拒否すれば30%までの手当削減。
 なお「失業手当Ⅱ」の実施機関をめぐっては、「連邦」と「州」との「財政紛争」が最後まで残った。州代表で構成される連邦参議院は野党が多数派で政府原案に反対したためである。結局、いわゆる「選択法」の実施大綱は次のようになった。69の自治体(原案29、野党案96)が「連邦雇用機関」から自立して業務執行を引き受ける、そのための予算32億ユーロ(原案25億、野党35億)を連邦から移譲する。
 シュレーダー首相は「ドイツ産業連盟」(BDI)の年次大会での挨拶で、「私は付託を2002年に受けた」、だから自らの政策のためにたたかい続けるとして、さらに次のように述べた。「たたかう者は失うこともできる。しかしたたかわない者はすでに失っている」(前掲「ルントシャウ」紙)。その「自らの政策」を「社会的皆伐」だとして抵抗するたたかいが年間を通じて展開された。

◆ 年金生活者たちの抗議行動続く

 前年秋の連邦議会の緊縮立法によって、04年の年金額は凍結された。一方、4月から介護保険料0.85%が年金者自身の全額負担となり、年頭から始まった健保改悪による窓口負担増に追討ちをかけた。さらに6月には、「年金財政の長期安定化についての改革」が立法化された。その焦点となったのはいわゆる「持続可能性係数」の導入である。今後は保険料納入者と年金受給者の比率が毎年の年金調整の重要な決定要素に加わる。この係数は、90年代末にキリスト教民主同盟のコール政権によって導入され、いったんは現連立与党によって削除された「デモグラフィ(人口統計)係数」の再版であった。
 年金制度改悪の動きに前後して、年金生活者を中心とした反対行動が続いた。2月26日にはハノーバーで年金者約1万人のデモ・集会が実施された。3月29日には、ミュンヘン2万7000人、ベルリン5000人など各地で4万人参加の抗議行動が展開された。「年金は施しではない」「社会保障削減・年金くすね食い反対」「われわれは国の乳牛(搾られる金づる)ではない」などの横断幕が並んだ。さらに5月15日にはベルリンで「社会的解体」に抗議する2万人の年金者集会が行われた。赤・緑(連立与党)は「アジェンダ2010」と「労働市場改革」で、「ついに企業側につき、労働者を雨の中に立たせる(見殺しにする)」と主催団体「ドイツ社会連盟」議長は訴えた。ver.diのビルスケ委員長も挨拶に立った。

◆ 社会保障改悪に反対する「欧州統一行動」にドイツで50万人が結集

 4月3日の「欧州統一行動」にドイツでは全国約50万人が参加し、シュレーダー政権の社会保障改悪に反対するデモ・集会では「これまでで最大規模」(ドイツ公共テレビ)となった。この大行動の呼びかけにはドイツ労働総同盟(DGB)、ドイツ社会連盟(前述の年金者デモの主催者)、グローバル化批判の市民団体attac、民主的社会主義党(PDS)、キリスト教団体などが名をつらねた。「9万人ではなく50万人近く―これが土曜日(4月3日―引用者)の全国デモの客観的総括である」と新聞は伝えた(前掲紙4月5日)。9万人とは同じ「社会保障解体ノー」を訴えた前年11月1日のベルリン集会の参加者数である(本報告第10集参照)。ベルリン25万人、シュツットガルト12万人、ケルン10万人と、拠点行動が組まれた。ベルリンではDGBのゾマー議長が、この抗議行動は「非社会政策」をやめよという「支配者への信号」だとし、「アジェンダ2010の基底には連帯がない。賃金を下げ、労働時間を延長し、企業で労働者の共同決定権をなくそうとする者に断固立ち向かおう」と訴えた。ベルリン行動には、「シュレーダーは去れ。アジェンダをやめろ」の倒閣要求も現れた。
 シュツットガルト集会ではver.diのビルスケ委員長が、「シュレーダーが打ち上げ、キリスト教民主同盟があとにつけ、企業家団体はそれでもまだ不十分だと言う。それが手本(アジェンダ2010)だ」と訴え、「今日われわれが、シュツットガルト、ケルン、ベルリンで、またヨーロッパの他の多くの都市で集まったこと、これは眞の国民運動の始まり、社会の中心からの国民運動、社会正義のための国民運動の始まりとなるだろう」と強調した。さらにケルンではIG Metallのペータース委員長が、「失業を克服しないで失業者を罰し、社会的弱者を助けないで社会国家を解体する政治をやめにしなければならない」「この政治は問題を解決しない、激化する」と政治の転換を要求した。
 社会民主党首脳は大衆抗議を無視する姿勢をとった。ミュンテフェリング党首は、組合は前を見ず既得権だけを守ろうとしていると非難し、社会制度の保障について自らの提案を出せと批判した。これにたいしver.diは、『無知と思いあがり』と題した反論を出し、党首はデモをけなすことしか思いつかない、われわれの考えはこれまで「千回」も繰返してきたと応酬した。

◆ メーデーに首相を招待しなかった

 04年のメーデーはEU拡大の日と重なった。その意味もこめてDGBのメーデー・スローガンは、「われわれのヨーロッパ―自由で平等で公正な」であった。しかし実際のメーデーは、組合と政府とのあいだの溝を際立たせた政府の社会保障削減政策「アジェンダ2010」の転換を求める大衆抗議の日となった。全国で51万人が参加した。組合は4月3日の「欧州統一行動」に連動する行動日としてこの日を位置づけた。
 今回のメーデーにシュレーダー首相は出席しなかった。政権発足以来(99年メーデーから)初めてで、政府広報はEU拡大の行事の先約があってと弁明したが、DGB側は別の面で首相出席のうかがいを出さなかったと述べた。「アジェンダ2010」の推進者を招く余地はなかった。
 2万5000人が参加したベルリンの中央集会では、DGBのゾマー議長が、「アジェンダ2010は3分の2社会の同義語となった。あからさまにわが国人口の3分の1がまったく帳消しにされる」、組合は眞の社会改革のためにたたかいの手をゆるめない、「低賃金、長労働時間、あるいは19世紀並みの労働条件と労働権を伴う社会的下降スパイラル」を組合は拒否する、と訴えた。
 マンハイムの集会に参加したIG Metallのペータース委員長は、政府の「社会改革」に対する抗議として全国的な署名活動を始めると予告した。ライプチヒではver.diのビルスケ委員長が、EU拡大を歓迎しながらも、「拡大はヨーロッパ全域で賃金が下降することに導いてはならない」、だから「法定最低賃金」について考慮が必要だ、と述べた(IG Metallの署名活動は「労働と社会正義のために」の名で他組合にも拡がり、集まった署名は11月末に連邦議会議長に手渡された。「法定最低賃金」はその後いったんは政治課題となったが先送りされた)。

◆ 「ハルツⅣ」に反対する「月曜デモ」

 「ハルツ第4法」の05年1月1日施行が議会両院の7月の妥協によって決定されたことは前に述べた。この決定の直後の時期から、同法にたいする反対運動が、とくに失業率の高い東ドイツ地域(西地域の2倍)で繰り返された。7月下旬から始まったこの反対運動は、毎週月曜日のそれとなって定着したため、ジャーナリズムによって第2の「月曜デモ」と名づけられ、後には運動の当事者も自称するようになった。本来のそれは旧東ドイツ国家の政治転換の合図となった89年9月25日のライプチヒ・デモ以後の経過に由来した。
 8月以降、「月曜デモ」は夜の集会・デモとして各地に拡がった。個人、組合、失業者グループ、attac、PDSなど幅広い呼びかけによるものであった。8月9日にはマクデブルク1万2000人、ライプチヒ1万人など36都市に4万人が結集した。「アジェンダ2010うせろ」「ハルツと貧乏に反対」などのプラカードが進んだ。ver.diのロストック地区委は「社会保障削減に反対する明確なシグナル」と報じた。デモに譲歩し拡大を牽制するために、8月11日、政府は閣内首脳間で「ハルツⅣ」の二点の修正を申し合わせた。失業手当Ⅱの支給を、従来の失業扶助受給者については支給が月末に行われていたのを理由に(社会扶助は月初め)、05年1月は支給せずとしていたが、全受給者1月初めと変更すること、対象者の資力調査での子供についての控除を15歳からでなく出生時からとし、またその額も引上げること。
 8月16日100都市9万人、23日140都市10万人と参加者は急増した。30日には西ドイツ地域も含め190都市10万人、ライプチヒでは6万人の大集会となった。ニコライ教会での平和の祈りでボール地区監督は、「ドイツがハルツ改革によって社会(福祉)国家であることをやめるとは論外」と語った。また教会広場での集会ではフューラー牧師が、「世界の中で経済成長だけが独り歩きし、人間が置き去りにされている」と訴えた。9月6日にも200都市10万人の集会・デモが行われた。同日は西のノルトライン・ウェストファーレン州で40都市1万5000人が行動に参加した。ザクセン州の失業率が25%を超える地域ヘットシュテットの集会に参加したギジ元PDS議長は、「すべての失業扶助受給者が社会扶助水準に落されれば、ひとはそれを法による貧困と呼ぶことができる」と述べた。なおこの日、各団体の代表者会議で、10月2日にベルリンで総結集行動を開くことが決定された。

◆ 「ハルツⅣの代りに社会的公正を―われわれには対案がある」、ベルリンで全国集会

 8月から続けられてきた月曜デモを総結集する全国集会・デモが、10月2日(土曜日)に標記のモットーを掲げてベルリンで行われた。PDS(民主的社会主義党)、attac、労働組合(ver.di、IG Metall、GEW=教育・学術労組)などが呼びかけ、約7万人が参加した。集会には全国から参加者が約100台の貸し切りバスや列車でかけつけた。「社会保障全面削減(社会的皆伐)に反対していっしょに立ち上がろう―最後にわらうために」の横断幕がデモの先頭を進んだ。「アジェンダ2010は社会不平等の中世社会への逆戻り」の横断幕やSPD(社会民主党)のSを逆さにしてその下に点を打ち疑問符に見立てたプラカードも現れた。「社会改革」の撤回が要求され、既成政党の「新自由主義的な政策」は終りにされなければならない、の声が上がった。
 デモは中間段階であり終りではない、集会では「改革」の再検討、特に失業保障制度の改悪撤回などを要求して今後も行動を続けることが決議された。ベルリンでは翌日3日にも「ハルツⅣは去れ―国民はわれわれだ」のモットーで3000人の星空行進が行われた。当日は「統一の日」記念日でもあった。
 これより先9月24日に、連邦議会は野党保守党の同意も得て「ハルツⅣ」の修正を議決した。8月11日に申し合わせしていた2点が主な修正点である。子供についての財産控除は年齢に関係なく750ユーロから4100ユーロに引き上げられた。失業手当Ⅱはすべての受給者に時期を合わせて05年1月初めに支給。抗議行動への小さな譲歩と、使用者団体や保守党への大きな譲歩のはざまで、「ハルツⅣ」はその実施を最終的に決めた。(島崎晴哉)